東京高等裁判所 昭和54年(う)479号 判決 1979年8月20日
被告人 朴鐘秀
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人岡田尚が提出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、東京高等検察庁検察官検事遠藤安夫が提出した答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用し、これに対して、当裁判所は、次のとおり判断する。
第一点 理由不備の主張について
所論は、裁判所は当事者の主張立証に対して、判決において納得のいく理由を示すことが、裁判の本質から要請されるその責務であるところ、原判決は、弁護人が提示した大型貨物自動車による左折事故一般の有する問題点、すなわち自動車の構造自体の欠陥および近時の交通事情等、ならびに本件被害者側の過失について、何等の説示もせず、結論に至る判断の過程を全く明らかにしていないから、原判決には理由不備の違法があるというにある。
しかしながら有罪判決には、主文のほか、理由として罪となるべき事実、証拠の標目、法令の適用を示せば足り、また、刑訴法三三五条二項に掲げる事項が主張されたときは、これに対する判断を示すことを要するが、そのほかに、事実認定における証拠評価の理由や結論に至る判断過程などについては、これを逐一摘示することを要するものではない。所論は、右条項に該当しない事実主張に対する応答、および証拠評価の理由についての判断過程の摘示を判決に求めるものであるから、主張自体失当というほかない。論旨は理由がない。
第二点 事実誤認の主張について
所論は、第一に、本件事故現場の交差点の手前の道路では、当日交通が渋滞していて、全般的に速度ものろのろしており、右交差点を被告人運転の大型貨物自動車が左折する直前に、崔敬国の運転する大型貨物自動車が左折しているのであるから、このような条件のもとで被告人に要求される注意義務は、左折するに際して、崔敬国に続いて左折するについての左後方の確認をもつて足りるというべく、このような時点(実況見分調書添付現場見取図<2>地点)で被告人が右の程度の左後方の確認をした際、被害者は死角内に入つていた可能性がある。第二に、被告人車と被害者の衝突部位および衝突場所(前図<X2>を主張)からすると、左折完了直前の衝突つまり新進路道路に五、六メートル進入した時点での衝突の可能性がある。すなわち本件事故は被害者の過失によつて生じたものであるのに、これを認定していない原判決には判決に影響を及ぼす事実の誤認がある、というにある。
そこで原審記録を精査し、当審の事実取調の結果をも参酌して検討する。被告人は原判示日時、車長七・一六メートル、車幅二・四六メートル、車高二・九四メートルの大型貨物自動車を運転して原判示の道路を進行して原判示の交差点に差しかかつた。ところで右道路は幅員約八・六メートル(片側約四・三メートル)のアスフアルト舗装道路で、その両側に約一メートルの幅の路側帯が設けられており、被告人が左折しようとした南林間方面に通じる道路は歩車道の区別のない幅員約五・五メートルのアスフアルト舗装道路であるが、被告人が進行して来た道路は同一方向に向かう車両がかなりこんでいたので、被告人は車が少ないと思われる南林間方面に通ずる道路に左折しようと考え、原判示交差点の手前でクラクシヨンを鳴らして先行の同僚の車に左折するよう合図し、これに従つて左折する先行車の後方で一時停止したあと、時速約一〇キロメートルの速度で発進し、少し右にふくらむようにして約八メートル進行した地点(前図<2>地点)で左にハンドルを切りつつ約一二・五メートル左折進行した際に前図<X1>地点で自車左側部を被害者に接触・衝突させ、同人を転倒させて轢過し、死亡させるに至つた。本件被害者は当日朝、勤務先の工場に出勤するため、右交差点に至る道路の左側路側帯を足踏自転車に乗つて本件事故現場まで被告人車と同一方向を進行して来たものであつて、このことは被害者の住居、事故現場ならびに勤務工場の所在場所の地理的関係、同人の日ごろの通勤経路、当日の自宅出発時から事故発生時までの時間関係等から優に推定できるところであるが、衝突時に接着した地点における同人の動静・行動の詳細は、目撃者がいないため不明である。しかし、当時道路上に車の渋滞はあつたにしても、左側路側帯は人通りがなかつたのであるから、被害者は途中停止を余儀なくされることもなく、足踏自転車に乗つて普通の速度で左側路側帯をかなりの長い距離、かなりの長い時間をかけて進行して来たものと推認できる。また被告人は、本件交差点に至る道路上に当時車両が渋滞していたため、いわゆるのろのろ運転をし、交差点の手前で一時停止するまでの間に、かなりの長い時間をかけて、数百メートルもの長い距離を進行して来たものと認められるのであるから、見通しのよい直線道路の左側路側帯を自転車に乗つて進行していた被害者の姿をその間に全く見かけることが不可能であつたということはありえないことである。もつとも、被害者が被告人車の左側を並進する形となつて死角に入つたため、被告人が被害者の姿を現実に見ることができない状況が一時的に生じることはありうることであるが、本件交差点の手前は少なくとも約一一〇メートル以内には左側から本件道路に出て来る横道はないのであるから、被害者が交差点間近の左側路側帯上に突如出現するはずもなく、また被害者が右の横道から突然路側帯上に現れて瞬時に被告人車の死角内に入り、そのままの状態で衝突時まで一一〇メートルもの距離を並進したというようなことも、およそ考えられないところである。すなわち、被告人は本件道路を進行して来て本件事故を起こすまでの間に、よく注意しさえすれば、いずれかの時点で、左側路側帯上の被害者が左前方か、左後方かのいずれかの地点にいるのを直接視認によつて、あるいはサイドミラー・アンダーミラーを通して見ることによつて発見することができたはずであると認められる。
しかるに被告人は、いずれの時点でも、終始全く被害者の姿を見ていないのであるが、仮に被害者が、被告人が左折のため一時停止した時点までに、すでに被告人車より左前方の交差点の方に近づいていて被告人の運転席から視認できる地点にいたとすれば、これを見落とした被告人の過失は極めて重大であるといわなければならないが、このように断定するに足る証拠はないので、被告人が一時停止した時点では被害者はまだ被告人車の停止した地点付近の左側ないし左後方にいたとして考えてみるほかはない。ところで所論は、左折のため一時停止した時点における被告人の注意義務に触れることなく、専ら現実に左折行為に出た時点における注意義務につき論及し、被告人が先行車に続いて左折した時点(前図<2>地点)で被害者が死角内に入つていた可能性を否定できないとし、先行車に続いて左折する場合に要求される運転者の注意義務は右の時点での左後方の確認義務で足りると解すべきであるとし、被告人は実際右の確認義務を尽くしたのであるが、その時被害者は被告人車の死角内に入つていた可能性があつて、そのため同人を発見することができなかつたのであるから、被告人には過失の刑責を負わせることはできない、と主張する。しかしながら本件において過失の有無を決めるについて重要なことは、左折のための一時停止の前後ころの時点も含めて広い意味における左折に際して、運転者として尽くさなければならない注意義務の内容は何かということであつて、現実に左折行動に出た時点での左後方に対する確認義務とその履行だけを取りあげて論ずれば、それで足りるというものではない。そこで、この観点に立つて考えてみるに、およそ前部左側部分に死角のある大型貨物自動車を運転して交差点を左折しようとする者は、左折のための一時停止の前後ころから、自車左側方を進行して来る自転車等があることや、それが自車の死角内に入り込むことがあることを考えて、左側路側帯上を通行する軽車両等の有無・動静に留意し、現実に左折を開始した後の接触・衝突の危険を防止するため、サイドミラー・アンダーミラー等によつて左側および左後方を注視し、自車の左側ないし左後方から進入して来て死角内に入り込むおそれのある軽車両等の接近の有無・動静を確認し、それとの接触・衝突を回避するための適宜の措置をとりつつ発進し、左折行動に出なければならない業務上の注意義務があるものといわなければならない。また、先行車に続いて左折する場合でも、その後方から約一〇メートルもの車間距離をおいて時速約一〇キロメートルで発進・進行した本件のような状況のもとにおいては、運転者に要求される注意義務としては前示したところと全く同様であつて、発進にあたつて左後方等を確認する義務がないとか、あるいはその義務が軽減されるとかいうことはないと解すべきである。そうしてみると、被告人は原判示のように、自車の進入する左折方向の道路に気を取られ、左折のため発進するに際して前示の注意義務を尽くさず、左側路側帯の軽車両等の有無を確認することなく発進した過失があると認めざるをえないのであつて、このような過失がある以上、その後の結果発生に至るまでの因果関係の発展経路のなかで、論旨が主張するように、仮に被告人が左折した時点(前図<2>地点)で左後方を確認したが、その時にはすでに被害者が死角内に入つていたため、その姿を見ることができなかつたとしても、このことをもつて被告人の刑責を否定する理由とすることはできない筋合いであるから、結局その趣旨に出たと思われる原判決には所論のような事実誤認はないといわなければならない。
次に所論は、本件の衝突地点は被告人車が左折しようとした新道路へ五、六メートル進入したところ(前図<X2>地点)であつて、被害者の過失が明らかである、と主張する。しかし本件の接触・衝突地点は前図<X1>地点であると認められる。この地点は被告人が事故直後の実況見分に立ち会い、路面・車体の擦過痕、衝撃を感じて停車した場所、自車の進行速度、進行方向等の諸状況や自分自身の実験した事実に照らして正しい接触・衝突地点として考えたところを自ら指示・供述したところのものであつて、信用するに足ると認められるから、前図<X2>で初めて接触したとする趣旨の主張は採用することができないので、右主張を前提として被害者側の過失を言う所論も理由がないといわなければならない。
第三点 量刑不当の主張について
所論は、被告人の一方的過失を前提とする実刑の原判決は過酷である旨主張する。
所論は、<X2>地点において被告人車が被害者に接触したことを前提にして被害者の過失を主張するものであるが、すでに説示したように被告人車が被害者に接触したのは<X1>地点であると認められるのであるから、所論はその前提において失当である。本件は、被告人が構造上死角を生ずるのを避けえない大型貨物自動車を運転して発進・左折するにあたり必要な注視確認の義務を尽くさなかつたため、被害者を轢過し、即死させた事案である。一般論としては死角が生ずるような大型車を製造することそのことに社会的な問題があるとしても、いやしくもそのような大型車を運転して道路を進行する運転手としては、死角のあるような大型車であるからこそ左折するに際しては慎重な運転をすることが要求されるのであつて、本件においては被害者側には特段の過失は認められないところであり、発生した結果は重大である。そうしてみると被告人の刑事責任は重いといわざるをえず、所論の被告人に有利と思われる情状を考慮してみても、被告人を禁錮七月の実刑に処した原判決は不当に重きに失するということはできない。論旨は理由がない。
よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判官 小松正富 石丸俊彦 礒邊衛)